日曜日、ギャラリー雲母で開催中の橘さんの個展を観に、四日市へ。
橘さんの作品を見るたびに、
他の多くの陶芸家の作品からは感じられない厳かさを感じることがある。
それは何なのだろう?
古作に近づく。
技術的な考察をめぐらせ、
土はどうだ、焼きはどうだ、と試行錯誤する。
これは古いやきものを手本として自らの作品を立ち上げようとするものなら、誰しも少なからずやることだろう。
橘さんの壺からたちこめる、えもいわれぬ厳かさは、そういった単なる技術的、知識的鍛錬の繰り返しの果てにあるものとは、何か、違っているように思う。
それは、陶芸、といった小さなくくりを飛び越えて、もっともっと大きな位相で、人間の根源的な部分に触れるものを感じさせるのだ。
川越での展示の時、見に来て頂いたあるギャラリストの方から問われた言葉がある。
『古作に近づく、という追求の果てに、ゴールはあるのですか?』
たしかに技術的なものだけを追っ掛けていたのでは、ゴールにたどり着いた途端(古作と似たようなものができた時)
終わってしまうものなのかもしれない。
何故、古いやきものは、美しいのか?
その問いに答えることは大変難しい。
しかし、古作に近づく、という行為の意味は、技術的な探求だけではなく、そのことを通して、根源的なレベルで、この”何故、美しいか”という問いへの答えを探し続けることにあるのではないだろうか。
灰釉の瓶子を眺めながら、わたしもいつか、こういう、厳かさのあるやきものが作れたらな、と思った。
川越での展示のとき以来で、本人にもお会いし、いろいろお話が出来てよかったです。